日経MJ 2007.11

政治にこそ必要なマーケティング活動 コトラーに学ぶ

ブレインゲイト(株) 代表取締役  酒井 光雄


1.なぜ今、マーケティングなのか



(1)マーケティングとは、企業が商品を売り込む道具ではない

 市場調査をマーケティングリサーチと呼ぶことがあるため、マーケティングを調査手法だと思っている人や、広告や販売促進の手法だと勘違いしている方が残念ながら結構存在しています。企業が商品やサービスを生み出した後にしか機能しない広告や販売促進と違い、マーケティングとはモノやサービスを生み出す前からその仕事は始まっています。

 ノースウエスタン大学ケロッグ経営大学院でインターナショナル・マーケティングの担当教授になった、ビジネスとマーケティングにおけるカリスマ教授のコトラーさんは、営利か非営利かにかかわらず「顧客の価値と満足を理解し、創造し、伝え、提供すること」であり、組織からみれば「顧客を満足させて、利益を得ることだ」と述べています。

 もうひとつ世の中で誤解されているのは、マーケティングは利潤を追求する企業のサイエンスだという考え方です。人間のニーズを効果的に満たそうとするあらゆる組織にマーケティングは不可欠な存在だと認識され、現在では世界中で積極的にマーケティングの発想が取り入れられています。顧客という単語を国民に置き換えれば、非営利組織のマーケティングとは「国民の価値と満足を理解し、創造し、伝え、提供すること」であり、「国民を満足させて、支持を得ること」になります。

 例えば海外の政府や地方自治体、大学、病院、博物館や美術館、警察や消防、そして公営の交響楽団まで、マーケティングのサイエンスを既に活用しています。国民の支持が得られなければ、政権は維持できませんし、自治体の経営が破綻すれば(アメリカでも1994年にカリフォルニア州オレンジ郡が財政破綻しています)、地域住民は自治体サービスがカットされた上に納税負担は拡大するため、手をこまねいていれば他の都市に流出してしまいます。社会負担増や財政の赤字化により、アメリカでも博物館や美術館、公営の交響楽団に至るまで補助金が削られています。

 こうした組織では、従来のように税金に依存するだけでは存続が危ぶまれるため、積極的に自分たちで運営資金を生み出す活動に取り組んでいます。海外の非営利組織や政府、自治体がマーケティング活動を展開しているのに対し、日本でのマーケティングに対する認識とその取り組みは残念ながらとても遅れています。

(2)あらゆる組織で必要なマーケティング発想は、政党や政治家も例外ではない

 モノが不足していた時代には、生活者の手間や不便を解消する商品をつくり、広告を投入すればそれで売れました。言い換えれば需要が目に見える時代だったわけです。この頃を象徴する商品といえば、洗濯機・冷蔵庫・テレビ・エアコン・電子レンジなどです。政治も同じで、経済が右肩上がりに成長する時代では、企業も国民の所得も向上して税収増になるので、政策を実行する上で財源を心配する必要はありませんでした。

 ところが日本社会が成熟しビジネスのボーダーレス化が始まると、その様相は一変します。同じ業種であっても企業間格差が拡大し、大企業でも経営破たんや吸収合併を余儀なくされる事態が訪れました。年功序列が崩壊したため生活者の所得が増えるとは限らず、消費心理は急速に減速してしまいます。

 生活必需品が充足すると、生活者の不平不満を解消する商品開発視点は通用しなくなり、企業は生活者自身ですら気付かずにいる新たな満足や感動を提供できる商品やサービスを生み出す必要が出てきました。企業にとってどんな商品をつくればよいかを、調査では答えを得られなくなったのです。顧客自身が答えを見出せず、何が必要なのかに気付いていない世の中になったからです。現在の調査は、過去を知るバックミラー機能に過ぎません。

 これは政治も同様です。不平不満を口にし、自己都合の利益を誘導したい一部の人たちの意見を政策に反映しているだけでは、大多数の声なき人たちは支持してくれません。不平不満を解消する対処療法的発想ではなく、国民が日本の将来に希望を持ち、安心して暮らすためにはビジョンが必要です。生活者の声に耳を傾けることはもちろん必要ですが、本当に重要なのは、国民が口にできない潜在的関心や問題を把握し、それを政策の立案と実行に生かすことです。こうした時代に、顧客起点のマーケティングは、極めて大きな力を発揮します。

2.顧客(生活者)起点の発想

(1)顧客起点の発想とは、最愛の人を判断基準にすること

 生活必需品が不足している時代にはモノをつくれば売れるため、企業は良い製品をつくって販売することだけを考えていれば済みました。しかしモノが充足し、顧客の需要が目に見えない時代になると、顧客にモノを売りつける発想では企業は淘汰されるようになります。生活者が口に出せない潜在的ニーズを掘り起こし、顧客が求める価値を創造する必要が出てきたからです。自己都合でビジネスを行う時代は終わり、顧客起点に立った行動を起こすことが、当たり前になったわけです。

 顧客起点の発想を理解する良い事例として、外資系ではハートフォード生命があります。この企業では商品開発の最終段階で、「社員が自分の母親に対して、自信を持って自社の新しい商品を販売できるか?」という問いかけを行う「マザーセールス・テスト」というユニークな方法を取り入れています。このテストで社員が納得できない場合には、新製品は発売せず、改良を余儀なくされる仕組みです。自分の母親に自信を持って社員が販売できるなら、良い商品に違いないからです。

 国内では冷凍食品やアセロラドリンクで知られるニチレイがあります。この企業の行動指針には「もう一人の家族のために」という文言があり、顧客の存在を自分の妻子や両親など自分の家族と同様に考えて、製造から販売まで行動しています。この考え方から、子どもたちのお弁当用冷凍食品として、着色料・保存料・化学調味料の三添加物を一切使用していない「お弁当にGood!」が生まれ、子供を持つ親たちにたいへん支持されています。

 この二つの事例を知れば、「顧客の存在と価値」がわかり、顧客起点に立って行動する考え方と具体的方法が理解できると思います。

(2)既存顧客を大切にするには、顧客の生涯価値を理解すること

 成熟社会では、顧客のとらえ方が高度化します。モノをつくれば売れる時代には、新しい顧客がいくらでも見つかりますから、新規顧客を見つけることに注力すれば済みました。しかし市場が成熟して競争が激しくなると、いかに既存顧客を大切にするかが、組織には不可欠な視点になります。

 例えばスーパーマーケットで、一回に1万円の買い物をする顧客が、年間に50回その店舗を利用し、同じ場所に10年暮らしたとすれば、顧客はその店に500万円もの大金を支出してくれることになります。これを顧客の生涯価値(ライフタイム・バリュー)といいます。この価値に気付かず、顧客への対応を間違えて顧客を怒らせてしまい、二度と利用してもらえなくなると、500万円の顧客を瞬時に失うことになります。顧客の生涯価値を知れば、既存顧客を大事にして、顧客起点で行動する重要性に気づくと思います。

 既存顧客を失うことは、金額的損失に留まりません。失望し怒りを感じた顧客は、その対応の不味さを多くの人たちに話すことになり、これが悪評となって世の中に広がっていきます。場合によっては、メディアに報道される最悪の事態になるケースも出てきます。

 逆に素晴らしい対応や企業行動をとっていると、その評価はクチコミで伝播して新たな顧客を生み出す資源となり、また既存ファンをサポーターに変える力になります。顧客がサポーターになってくれると、依頼されなくても新規顧客を紹介してくれるようになります。顧客を大事にした組織に対する、社会からのご褒美です。

 政党も同様に、長年支持してくれた人たちが見限れば、票を失うだけでなく、悪評が瞬く間に広がり、大きな痛手をこうむることになります。顧客(生活者)の生涯価値を理解して行動することは、あらゆる組織に必要です。悪評を防ぐためでなく、新たなファンを創造する資源として、既存顧客は極めて重要な役割を果たしてくれるのです。

3.コミュニケーションの質が問われる時代の幕開け

(1)変質するメディアとコミュニケーション

 社会の構造と生活者が変化するだけでなく、メディアとコミュニケーションも大きな変貌を始めています。例えば若い世代を中心に、雑誌や新聞を定期購読する人が減少していることです。単にニュースを入手するためだけなら、テレビを見れば済みますし、インターネット(以下ネット)で検索すれば最新の情報や詳しい内容が入手できるからです。またマスメディアの時代には普通の人には社会に発言する場所や機会が与えられていませんでしたが、ネットの登場によって生活者は誰でも自由に世界に向けて発言し意見交換が行える環境になりました。これは情報の主役がマスメディアから生活者に代わり、情報を一方的に受身で受け取る状況から、必要な情報は検索し、さらに生活者が相互に情報を受発信する環境に変質したことを意味します。

 2011年に地上波テレビがデジタル化しますが、これを境に既存のマスメディアがネットに組みこまれることは確実です。そうなれば現在のコミュニーション方法は劇的に変化します。例えばこれまで広告を行おうとすればマスメディアに多額の広告費が捻出できる組織に限られていましたが、ネットの登場により小さな組織でもコミュニケーション活動が可能になり、ネット上に販路まで入手できるようになりました。

 これは企業に限らず、政治や政党にも該当します。現在は法的規制がありますが、政治や選挙のコミュニケーション活動も変わらざるを得なくなります。選挙期間中に選挙カーから候補者名を連呼し、街頭演説やテレビによる有権放送などは将来意味を持たなくなります。選挙期間に限らず、政治家の活動内容や実現した政策、反対した法案などがネット上に公開されるため、絶えず政治家は有権者から評価されるようになるからです。

(2)広告的コミュニケーションから、双方向型広報コミュニケーション活動への変貌

 マスメディアを使った従来の広告は、企業や商品の知名度と認知度を高め、購入を促進する役割を果たしていました。しかしネット社会では、単に企業からの一方的なメッセージは信用されず、評価基準として顧客の推奨や評価が加味されることになります。既にネット上で書籍を始めとする通販を行うアマゾンでは、この仕組みを実践して成功しています。

 情報は企業から発信されるだけでなく、個人のホームページやブログによっても情報が受発信されています。人気のある企業や商品をネットで検索すれば、数限りなく情報が見つかります。逆に人気のない企業や商品では、検索しても何も情報がなく、生活者からは信頼できないと判断されてしまいます。

 一方通行の広告的コミュニケーションは終わりを告げ、生活者を巻き込んで情報が増えていく広報的コミュニケーションに、世の中のコミュニケーション環境は変貌しているわけです。自己都合によるメッセージや一方的な発言は世の中に受け入れられず、いかに生活者が共感し自分たちのファンになってくれるかが問われる社会が到来したわけです。

4.政党や政治家こそ、マーケティングを学んで欲しい

(1)企業と非営利組織の存立基盤は同じ

 企業と、国や地方自治体、学校法人や病院などは、経営視点こそ異なりますが、組織が存立するために生活者(国民)の支持を受けることが前提となります。顧客の支持を得られなければ、その組織は淘汰されます。また組織が生き残るために、万一顧客の信頼を裏切る不正行為や脱法行為を行えば、市場から退場させられることになります。

 組織に働く人材から見ると、自ら収益を上げる大変さを知らず、自動的に入る収入(企業なら給与ですし、国なら税収になります)に依存して経費を使うことしか考えない人たちが体勢を占めれば、組織は必ず破綻します。また単に資金を投入するだけでは、一時しのぎに過ぎず抜本的な対策にはなりません。継続的に収入を増やす知恵が、組織にもたらされないからです。

 経済のサービス化が急速に進展していますが、これは企業に限らず公務員にもサービス化に対応した行動が不可欠であり、顧客に対するサービスマインド(人のために労務を提供し、自らも喜べる気持ちになること)が欠かせません。もし社会保険庁にハートフォード生命の「マザーセールス・テスト」の仕組みと、ニチレイの「もう一人の家族のために」のような行動指針があれば、今回の年金問題のような事態にはならなかったと思います。

(2)企業と生活者に学び、価値を生み出した結果がブランドを誕生させる

 あらゆる企業は知恵を使い、顧客に支持されるために日夜たゆまぬ努力を重ねています。また生活者は人生を有意義に過ごすために、有効な時間とお金を使う知恵を使います。企業が顧客のために最善の行動を起こせば、顧客は依頼されなくてもその企業の商品やサービスを人に勧めてくれるようになります。顧客の評価や評判が高まると、それは次第に新たな資源を生み出します。それがブランド価値(価格の多寡でなく、価値で選ばれる見えざる価値)です。ブランド価値が生まれると、組織には強力な求心力が働き、人々を魅了する魅力的な資源となります。

(3)マーケティングとは人の心をつかむサイエンス

 成功する組織とは、世界中の優れた組織の考え方と行動を謙虚に学び、単に模倣するのではなく、先行事例を参考にして自分たちで独自の価値を生み出すノウハウを創出します。あらゆる組織がマーケティングの重要性に気付き、そのノウハウを活用している理由は、顧客の心をつかんで離さないことが成功の近道だと知っているからです。

 コトラーさんに代表されるマーケティングのサイエンスを学び、知識の習得に終わらず独自の知恵として活用できれば、日本という国はもっと輝きを増し、世界中から評価を受ける国になると思います。